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東アジア青年交流プロジェクトのブログ

日中関係と民間交流 鈴木英司氏講演録②

①からのつづき

 いまは国交正常化45年のなかで最悪の状況。79年の平和友好条約以降、自民党内ではなんとかやってきたのに、民主党政権で問題が発生した。尖閣問題への見通しが甘すぎた。野田首相は、胡錦濤主席に戦略的互恵関係の強化を伝えたわずか2日後に尖閣諸島の「国有化」を閣議決定した。これがとんでもない話。江田五月さんたちは中国の対外連絡部で尖閣問題は中国の「核心的利益」という言葉を聞いていた。しかし、日本の大使館はそんなはずはないと政府に報告した。何とかなると思った。そして、官房長官、副官房長官、総理補佐官らが国有化の話を進めたと言われている。結果、胡錦濤の面子をつぶした。問題解決に大切なのは対話と協調。国交正常化のときもそうだった。しかし、いまの日本は「中国との間に領土問題はない。外交問題ならある」という立場。これでは中国は納得できない。「問題がない」と言われたら対話もできない。

 72年に公明党の竹入委員長と周恩来総理が会ったときに国交正常化の案文ができた。周が「島の問題は話をしないようにしましょう」と言い田中角栄首相との会談につながった。田中は予想に反して尖閣の問題を話題に出したが、周は「今回は話し合わないようにしましょう」と言う。78年の日中平和友好条約調印のときは鄧小平が「将来、若い人たちが解決してくれる、私たちには智恵がない」と言いました。ここで福田首相と園田外相はOKした。国交正常化の原案を書いた外務事務次官の栗山昭一さんも後に語っている。ところが、いまの外務省はそんな暗黙の了解はないといっている。 

 日中間には、日中共同声明、日中平和友好条約、日中共同宣言、日中共同声明4つの基本文書と2つの紳士協定がある。「閣僚の靖国参拝は、首相、外相、官房長官が不参拝なら容認する」という紳士協定。尖閣周辺の領域に中国の船が来たときは中国に帰すという紳士協定。いずれも文書ではない。前原外相のときにこれらを蹴飛ばした。

 靖国問題について。84年にわたしが会った中国の対日本政策最高責任者である張香山氏は、「靖国神社の存在は問わない。それは日本の国内問題。しかし、戦争を起こした責任者であるA級戦犯が合祀されることは耐えられない」と言った。安倍首相が靖国参拝をすれば大変なことになる。安倍さんと小泉さんの決定的な違いは米国との関係。「慰安婦」問題でも安倍さんは米国との関係を悪くしている。中韓が反発をして米国が反発しても「海外からとやかく言われたくない」と言ったのでは世界に通用しません。国益――私の言葉で言えば国民益に反する。

 

③へつづく

日中関係と民間交流  鈴木英司氏講演録①

 

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 「遠くの親戚よりも隣の他人」どうし仲良くしなければいけないのに日中関係は尖閣の問題でうまくいっていない。「殴られるんじゃないか」という雰囲気さえしている。NPOの調査結果で、中国への印象が「よくない」「どちらかといえばよくない」と答えた日本人は昨年度より5.8%増えて90.1%。中国では28.3%増えて92.8%。日中双方が9割を超えたのは初めて。安倍首相の靖国参拝は、日本側は「かまわない」が46%、「私人ならかまわない」27.5%で7割強が容認。中国側は「公私とも参拝すべきでない」が62.7%。私的参拝も含めた容認は15.5%減って29.4%。これだけ認識の乖離がある。

 中国とはどんな国か。世界第2位の経済大国になりましたが、国民1人あたり所得は世界第100位、75%以上が農民。北京や上海だけが中国の姿ではない。49年に革命が成功して65年に文化大革命。いまの中国につながる改革開放政策は78年の鄧小平から。まだ35年。鄧小平の先富論は中国の経済成長を実現させたが、地域格差―特に内陸と沿海、農民と都市労働者の差、そして拝金主義を生んだ。いまは党幹部の汚職問題や環境問題が焦点化されている。新しい中国がつくられるなかでの問題を批判するのは簡単。中国共産党は走りながらこの問題を解決せざるを得ない。

  胡錦濤は和諧社会の実現を打ち出した。農民と都市労働者、出稼ぎ問題、環境問題。三農(農業・農民・農地)問題の解決策に、農村と農村の間に中間都市をつくり高速鉄道で結び生活向上をはかることにした。環境問題は、中国の4種の文明(精神文明、物質文明、政治文明、生態文明)のなかに位置づけられた。習近平もこれまでの政策を継続して、年間6.8%以上の経済成長を実現させるだろう。この30年間で年9%を超える成長をした結果、格差はあっても国民生活は向上した。世界の大国の道を進む中国とわたしたちはどうつきあうべきか考えないといけない。

 

②へつづく

東アジアとは何か?―民衆中心の東アジアをいかに創るか? 徐勝氏講演録⑤

④からのつづき

東アジアとは日本中心の地域秩序だと考えてもらえればいいと思います。「東アジアとは日本のことだ」と言っている学者もいます。アジアという道をヨーロッパの帝国主義者たちが歩いてつくったとするならば、東アジアという概念は、日本がこの地域を侵略支配するなかで形成された概念であると言えるでしょう。であるがゆえに、これから、日本が世界を語ろうとするならば、自らが歩んでつくってきた東アジアという概念を乗り越えねばならない。支配者の言葉ではなく、支配された者たちの言葉として、この地域の民衆の言葉として、この東アジアの概念を創り直すことなしに、日本が世界に向けて進めるとか、普遍主義に到達するなどというのは、まったくの偽善であると私は考えます。

 近日、「日本孤立」と言われています。これは2005年東アジア反日デモのなかで言われた言葉です。竹島問題の日の制定を契機にして、教科書問題、歴史認識の問題、日本軍「慰安婦」の問題などが噴出して、中国や韓国などで反日デモが行われました。そこで朝日新聞の論説員だった船橋洋一さんは、「日本孤立」という本を出しました。今日において、再び「日本孤立」がいわれております。日本孤立は、日本が1945年をもって過去と断絶できず、そして東アジアという日本中心の地域秩序を根底から変革できずにきたことと結びついていると考えます。

  第二次世界大戦で東アジアの国々は植民地あるいは半植民地の地位にあり、赤裸々な国家暴力の支配のもとにあったけれども、第二次世界大戦の後、自分たち民衆が主人公になる世界がきたのだと思いました。旧支配秩序をそのまま続けようとする勢力の間で非常に大きなぶつかりあいがありました。そのなかで、日本の植民地支配、総督府の支配、それに協力した朝鮮人(親日派)、日本の支配者も含めた「植民地支配レジーム」という勢力が存在します。親日派は、ただ単に日本の植民地主義者の付属物、従属物ではなく、ひとつの利権集団として存在し、その後も親日を親米の看板に置き換えることによって、東アジアを支配しつづけている、東アジア支配レジームがあると考えています。植民地支配下において抑圧されてきた人たちが、解放され、自由を得ることを著しく阻害したのが、この東アジア支配レジーム(これは韓国における親日派であり、台湾においては、日本とアメリカと結託した蒋介石政権でしょう)でした。国家暴力の被害者たちは、そのことを強く訴えるべきだと思います。朝鮮半島では象徴的には済州島の4・3事件に始まった民衆の抵抗闘争が非常に残虐な弾圧を受けましたし、台湾においても冷戦時代を通じて自分たちの正義を主張することは許されず、徹底的に封じ込められてきた人びとがいるわけです。それらを糾明することこそが、東アジア近代、すなわちアヘン戦争以降の地域における支配・被支配関係を明らかにし、民衆たちを復権させることにつながります。そして、この地域における東アジアの概念の変革、そして主人公たる主権者たちの本当の意味の登場を実現するひとつの道筋になるのです。

  私たちの課題は、自分たちが主権者であることを自覚することです。日本はきわめて異常な国だといわざるをえません。たとえば、小林多喜二の獄中での虐殺は、明明白白な事実であるにもかかわらず、日本国家は事実の調査もせず、被害者家族への謝罪も補償も一切していません。「日本はどうして東アジアの被害を受けた人びとに謝罪や補償をしないのか」と、私もよくたずねられますが、それに対して「そんなことするわけないだろう。日本の国家暴力の犠牲にされた日本国民に対してさえ、日本国家は一切何もしていないんだから」と答えます。これはきわめて異常なことなのです。ヨーロッパにおけるナチスの問題だけではなく、ラテンアメリカや東アジアにおいても国家暴力の不正な行使に対して、これを清算しようということは、程度の差はあってもずっと行われてきています。日本だけが一切やっていません。これが天皇制明治国家の連続性の証拠であり、日本が変われていない、「文明」と「野蛮」という二元的な東アジア観をずっと引き継いでいることの、何よりの証拠だと考えます。

 結論として、若者たちのめざすべきことは、この「野蛮」という烙印を押された「野蛮」が「文明」を変えていくことです。これを私の結びの言葉として、このアジア青年交流プロジェクトが成功してくれることを心から祈りながらお話を終わりたいと思います。ありがとうございました。

 

東アジアとは何か?―民衆中心の東アジアをいかに創るか? 徐勝氏講演録④

③からのつづき

 

 

この二重構造のなかで植民地支配が形成されました。差別の問題というのがよく出てきます。差別の根源は非常に長く、根が深いかもしれませんが、今日におけるさまざまな差別の根源は、文明と野蛮の二元的な世界観から生まれていると思います。ナチスのホロコースト、ユダヤ人だけでなくジプシーや社会主義、共産主義者、あるいは少数者たちに対する虐殺・抹殺というものの背景には優生学的考え方があることはご存知だと思います。この世の中には優れたものと劣ったものが存在する。優れたものが劣ったものを支配するのは当然のことで、劣ったものを抹殺すべきだという考え方が、ナチズムの狂気を生んだといわれますが、ナチズムだけではありません。日本も初期においては不平等条約を西欧列強から強いられ、その不平等条約を解消することが明治外交の最大の課題であったことは皆さんご存知のところです。そのために、最初は中国や朝鮮と連帯して対抗しようというアジア主義の考え方も存在しましたが、結局は文明開化というスローガンのもと、欧化主義、徹底的に西洋文明を学んで、西洋世界に属するんだということで、条約改正を達成しようと考えました。その結果どうなったでしょうか。日本は文明をめざしてまっしぐらに駆け抜けてきました。そして文明と言う考え方によって、朝鮮や台湾や満州を侵略して支配し、植民地化してきたのです。文明に合流するのだと、一生懸命それを目標にして駆け抜けた、しかしその目標自身、すなわち文明自身が、他者の犠牲と支配の上に花咲く、きわめて野蛮な存在だったということを見逃してはならないと思います。

 

 日本の非常に大きな問題は、文明が野蛮であることにいまだ気づいていないことです。野蛮な文明性を継承し、それとの断絶、離脱をまだ果たしていないことが大きな問題だと思います。日本の条約改正はいつなされたかご存知でしょうか。1911年です。1910年、日本が韓国を併合したまさにその翌年なのです。これは非常に象徴的な事件だと思います。もちろん日露戦争を控えた日英同盟とか、いろんな「幸運」もありましたが、一人前に植民地支配をすることによって、西欧帝国主義列強に文明国家として認められたわけです。韓国併合が日本の条約改正の前提であったということが、私は非常に重要なことだと考えています。

 

 反ファシズム戦争といわれる第二次世界大戦を経て、今日においては、アメリカの価値である自由と民主主義、人権という価値が実現しました。そして、民主主義、自由主義市場経済が正義であり、それ以外の自分たちの文明とは違う世界であり、いわゆる人間の範疇に含まれない世界がまだまだ存在しているのだ、というような世界観が今日においても脈々と続いています。象徴的なのは、イラク戦争のとき、アメリカが、キューバのグァンタナモでのアウカエーダという烙印を押された収容者におこなった虐待の数々です。交通・接見権を遮断し、面会もできない手紙も書けないような状況をつくりました。近代の監獄では、あってはならないことです。収容所に関する国際法に反することも言うまでもありませんが、アメリカにとっては、グァンタナモに収容されている人たちは、アメリカ国内法、国際人権法にも該当しない、人間以下の「もの」たちだったのです。中央アジアにおけるアメリカ情報機関の秘密収容所における残虐行為を正当化しようとしました。今日、その問題についてなお十分に解明されたとは言えませんし、このことに対するアメリカの言い訳こそが、この世の中にいまだに文明と野蛮という二元的な世界が存在するという、アメリカの価値観の欺瞞性を自ら露呈していると思います。

 

⑤につづく

東アジアとは何か?―民衆中心の東アジアをいかに創るか? 徐勝氏講演録③

②からのつづき 

  さきほど主催者が東アジア青年交流プロジェクトについて「世界というのは広すぎるので、まず東アジアだ」というふうにおっしゃいましたが、私はそういう理解の仕方はよくないと思っています。とくに日本にとっては、東アジアの地域概念、歴史的概念をどのようにクリアするかということによって、初めて普遍的な、あるいは世界への道が拓けると考えます。その道を通らずに日本が世界を語ってきたからこそ、日本は歴史的な大きな過ちを犯してきたと思っています。東アジアを考えるにあたって、魯迅は『故郷』という短編小説のなかで、次のような言葉を記しています。

 希望とは、もともとあるものと言えぬし、ないものとも言えぬ。
 それは地上の道のようなものである。
 地上にはもともと道はない。
 歩く人が多くなれば、それが道となるのだ。

 文明とか文化といわれるものは、自然の上に人間の生活がつくってきた足跡です。この足跡がまさしく魯迅のいう「道」にあたるわけで、人類がこの地上に生存するためのさまざまなもがきやあがきのなかでできてきたものが「道」です。東アジアという道はどんな道であり、誰が歩いてきたのか。私たちは、東アジアが昔からこの地域にあったと錯覚しがちですがそうではありません。そもそもヘレニズムの世界から東方を見て、アジアという言葉が使われるようになりました。そしてヨーロッパの大航海時代、産業革命を経るなかで、この概念がどんどん地球大に拡がっていきました。明治初期に、東京美術学校の校長をしていた岡倉天心は、「アジアはひとつだ」と言いました。アジアはひとつでしょうか。そうではないと思います。ある人は「アジアは多様だ」と言いました。そんなことは当たり前のことです。そもそも、私たちが社会契約を結んだり、一致団結したりして「アジアをつくろう」と、つくったものではないのです。この地域に侵入してきた西洋の列強が「アジア」と規定し、名前をつけた。そういう烙印を押したことがアジアの始まりなのです。帝国主義者の歩んできた道がアジアという概念なのです。しかし同時に、侵略、支配のなかでこれに抵抗をしてきた闘争も、もうひとつのアジアであると言えるだろうと思います。

 近代社会の誕生以降、ヨーロッパでは主権国家が長年の宗教戦争を終えて、外部に向かって膨張する時代に入ります。そこで、さまざまな道をつくって、アフリカ、ラテンアメリカ、アジアという地域がヨーロッパの帝国主義国家によってつかみだされたと理解すべきだと思います。私は東アジアの問題を考えるにあたって非常に重要なのは、近代国家、主権国家の誕生にあたって国家間の独立平等、内政不干渉という概念が作られたことであると考えます。中世の世界、ローマ教皇神聖ローマ皇帝のもとに序列化されていた縦型の構造が破壊され、それぞれ独立国家が誕生し、そこから近代市民社会における個人の平等という概念の萌芽が現れてきたと一般的にいいます。私はそれを肯定的に評価します。ただし、この世界が、外に向かって膨張していくなかで、自分たちの特権的な立場を確保していくために、彼らは「文明」と「野蛮」という考え方をつくりました。すなわち西洋世界、いわゆる近代的な法体系のもとにある国家は文明であり、それ以外の国家は野蛮あるいは未開だという二元的な世界観をもったわけです。であるから、この地域にあらわれた西洋帝国主義者たちは、「不平等条約を押しつけることは正しい。自分たちと平等な立場にない野蛮国家には不平等条約が当然である、奴隷制や植民地支配は、野蛮な彼等を文明化するためには当然のことである。自分たちに神があたえた使命である」とまで考えたわけです。

 

④へつづく