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東アジア青年交流プロジェクトのブログ

東アジアとは何か?―民衆中心の東アジアをいかに創るか? 徐勝氏講演録②

①からのつづき

 「平和と相生」とレジュメに書きました。共生と相生というのは同じ意味ではありません。私は共生という言葉が嫌いです。共生というのは、生態学的な用語ですが、日本社会において「共生」といっていることにまやかし、詐欺性への怒りを覚えます。「同一環境のなかで違う個体が存在している」という、きわめて非社会科学的な「共生」そのものが嫌いです。しかも、アメリカが多文化・多人種共生社会だと大手を振り、日本も国際化の波のなかでそれを取り込み、内閣府にも「共生推進室」などというものが設置されています。日本の多文化共生社会は、いわゆる日本国家を前提としながら、「そのなかでおとなしく分に甘んじて住んでください」という話だろうと私は理解しています。同一環境のなかに多種類の個体が存在するということは、そのなかで支配と被支配という関係は必ずあるはずなのです。それを見ようとしない共生論は非常に欺瞞的だと私は考えています。他方、相生と言う考え方は、陰陽五行説から始まる中国哲学のひとつの用語でもあります。個体と個体が関係しあい、お互いが連環しているということに視点をおいています。平和の達成というのは、力のバランスだとか、消極的な平和概念だけでなく、相互のさまざまな民族との連鎖のなかで達成する必要があるのだということです。

 さて、昔は「革命」と表現もしましたが、その言葉自体が傷つきボロボロになっています。レジュメには「変革」という言葉を使いました。オバマ大統領の「change」は「変革」と訳されました。変革とは、全く新しい世界をつくるというよりも、民衆の主権を確立することだと思っています。民衆の主権の確立、すなわち、ここにおられる皆さん一人ひとりが自らの運命の決定者であり、国の政治や社会の主人公であるという意識を持つ必要があると思います。私は大学で一回生の教養科目も教えますが、「主権とは何か」と質問して、それにちゃんと答えられる学生はほとんどいません。私は、近代社会の展開以来、最も重要な概念は「主権」だと考えています。「変革」というのは、近代社会の根底にある「主権」という概念をもう一度確認し、自覚し、それをもとに権利の主張と行使を行うことだろうと考えています。もうひとつ、この「変革」において重要なのは「住民の安全保障」です。安全保障というのは、主権国家を単位とした外敵からの防御であり、国家の専権事項だという考え方が一般的に存在してきました。かつて「市民」とか「国民」とか「人民」といわれてきた人たちも、外交防衛問題、とくに安全保障といわれると、自分たちにはまったく関係ないものだと考えてきました。しかし本当にそうでしょうか。

 かつて、安全保障は国家の専管事項とされてきたのですが、人民の主権、民衆の主権というところから見れば、安全保障というのは、その人民や民衆の要求と行動によって、ますます明らかになっていくように、住民たちの問題なのです。住民たちが安全保障について発言し、選択する権利があると考えるわけです。済州島のカンジョン海軍基地建設現場では、祖先からずっと伝わってきた土地を軍事基地にするわけにいかないという、非常に単純素朴な発想から始まっています。私は、これは非常に生命力が強い運動の根拠になっていると思います。満身創痍になりながら、いまだ放棄せずに闘っています。沖縄の高江村は、村民約300人のなかで闘争委員会メンバーは15人です。年寄り子どもを抜いて、動ける人がそのくらいしかいないということだと言われていましたが、村全体として、動けない人も、さまざまな有機的連関をもって闘っています。これらに共通するのは、安全保障が国の専管事項であった時代は過ぎたということです。住民がこれについて発言し、決定する問題になってきていると思います。

 

③へつづく