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東アジア青年交流プロジェクトのブログ

東アジアとは何か?―民衆中心の東アジアをいかに創るか? 徐勝氏講演録①

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今、若者たちには展望できる未来というものがほとんどなく、新聞離れを通り過ぎ、テレビも観ない、インターネットも限定されたごく少数とのコンタクトで、それも自分勝手な「つぶやき」に終始しています。新自由主義に対する批判や怒りは通り越して、いまや「さとり世代」とまで言われています。一昔前には「しらけ世代」と言われましたが、最近は、自分の趣味の世界でだけ暮らしていけばいいという悟りの境地に至っているということに非常に驚きました。

 

韓国でも若い世代が変わってきています。1960年代の李承晩政権に対する4月学生蜂起から始まり、70~80年代にかけて、社会変革の先鋒にあった青年学生運動が崩壊してきています。大学のなかで、学生同士の対話がなくなってきています。以前は、大学で勉強もしながら、飲み屋でも活発に話していました。しかし最近は、お互いに会うことそのものが難しくなっています。なぜなら、さまざまなプロジェクトや課題に追われて、お互いに話す時間がほとんどないのです。私がソウル大学の大学院生たちに、「一度みんなで集まって話でもしようよ」と声をかけても、「先生、みんなで集まるのはちょっと難しいです」という返事で-ショックでした。

 

私は監獄で19年間生活しました。そして監獄大学を卒業するときに考えたのは、「統一も必要だ。分断しているからこのような現実があるのだ。しかし何よりも必要なことは平和だ。再び戦争をしてはならない。暴力が支配する世の中をなくしていかなければならない」ということでした。きわめて初歩的な考え方で、私はそのころ勉強不足で、国家暴力とはなにか、近代以降の国家における暴力装置とはなにかということについて、ちゃんと体系立てて理解していたわけではなく、むしろ本能的にそのような考え方をもっていました。平和については多くの人たちが語っており、力の均衡による平和ということが従来型のパワーポリティクスで語られてきました。しかしそれでは結局戦争をなくすことはできない、暴力の支配を肯定するのは明らかである。かといって、いわゆる理念における絶対平和主義というようなことで平和が達成されるのかというと、また非常に大きな問題があります。

 

②につづく